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早世の天才画家 Jean-Michel Basquiat(ジャン=ミシェル・バスキア)の作品と生涯

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Jean-Michel Basquiat(ジャン=ミシェル・バスキア)は1660年から1988年を生きた早世の天才画家。
ニューヨークを拠点として活動しており、Neo-Expressionist(新表現主義、新表現主義者)と形容されるアメリカアート界に大きな影響を与えたとされる人物。

2016年には競売大手のクリスティーズが、Jean-Michel Basquiatの絵画(1982年)が5728万5千ドル(約63億円)で落札されたと発表。翌年にはサザビーズに出展された肖像画が1億1050万ドル(約123億円)で落札され話題となった。


Untitled (123億円の値がついた作品)

<作品>
Jean-Michel Basquiat(以下バスキア)の芸術は富と貧困、分離と統合のように、本質的に対極にある事柄に焦点を当てることが多い。また、人種差別や歴史的な事象に対する批判や不安などの感情表現を、荒々しいタッチと抽象的な作画で表現している。

画家のJackson Pollock(ジャクソン・ポロック)のようなドロップ(筆と支持体とが直接触れ合うことはなく、塗料を羽散らす手法)や、Cy Twombly(サイ・トゥオンブリー)のような走り書き、またJean Dubuffet(ジャン・デュビュッフェ)の描く「子供を真似たような」手法を取り込んでいる。加えて、Edouard Manet(エドゥアール・マネ)や Pablo Picasso(パブロ・ピカソ)、Andy Warhol(アンディ・ウォーホル)歴史的なテーマから着想を得る手法は、バスキアを新表現主義と呼ぶ所以。


Maid from Olympia (1982)

明確な意図を持って作成されているバスキアの作品ではあるが、同時に見る者にその解釈の余地を与えるのも、バスキア作品の魅力。Maid from Olympia (1982)という作品は、Manet(モネ)の絵画に登場する黒人女性のメイドを、多色に彩られた絵画の真ん中に配置、周りを木製の枠で囲った作品。祖先をアフリカンに持つバスキアにとって、その作品はアフリカの過去の歴史を反芻したものであるように捉えることもできるが、絵画の中に描かれている「FEET」、「100/49」、「27.」と文字、数字がどのような意味を持つのかは、解釈は提示されていない。

他の作品に目を向けてみても、一つの事象を具体的であると同時に抽象的に描き、その手法も詩、ドローイング、絵画など多様な方法を組み合わせている。現代美術にとって作品が持つ意図や意味が重要視される風潮の中、バスキアの作品が高騰している背景には、それが一つの明確な意図によって作成されていると認識されているからに他ならない。

<生い立ち>
バスキアはハイチ系アメリカ人で会計士の父親と、プエルトリコ系の母親の間にニューヨークで生まれた。バスキアの両親、特に母親は絵画の素人でありながらも、バスキアの幼少期によく彼をニューヨーク界隈のミュージアムに連れて行った。Brooklyn Museum of Artの子供用プログラムにバスキアを参加させるなど、彼が芸術の道を志すのを応援し続けたという。バスキアはよく、母親と夜にヒッチコックのような漫画のキャラクターの絵を書いていたと回想している。

バスキアは芸術に関しての教育は受けていないものの、幼少期に読んでいた書籍などが、彼の芸術に大きな影響を与えたと言われている。バスキアは7歳にして、英語・フランス語・スペイン語を理解しており、歴史や詩、神話のような文学をそれぞれの言語で読んでいたという。8歳の時に腕を骨折した際には、『グレイの解剖学』という著名な解剖学書を読んでいたほど、多彩な専門書や文学を読み漁っていた。

その後両親が離婚、引越しを経験したバスキアは、17歳の時に故郷ニューヨークに戻る。その頃から友人のAl DiazとともにSAMOを名乗り、ニューヨークの街中にスプレーを使用したグラフィティを始める。SAMOは"Same Old Shit"の略で、日本語では「古き良き」や「いつもと同じ」といった意味合い。


“SAMO 4 the so-called avant-garde.”

"SAMO is dead"

二人のグラフィティは絵画ではなく、機転のきいた短い詩のようなものを、"SAMO"というフレーズをからめてスプレーする手法を採用していた。

“SAMO 4 the so-called avant-garde.”(SAMO, アバンギャルドと呼ばれる者のために)・"SAMO saves idiots, Plush safe he think; SAMO"(SAMAがバカを救う、彼は考える、危険か安全か)と言ったような詩の一節を連想させる作品が、グラフィティとして描かれた。SAMO名義で、ポストカードやT-Shirtを販売し、生計を立てていた時期もあった。

20歳はバスキアにとって転機の年となる。同年初めてニューヨークの展示会にSAMO名義で作品を展示。展示会はニューヨークの2つ企業がスポンサーを務め、200以上のアーティストが出展する大規模なもので、ニューヨークのアートコミュニティーにおいて、その名が知られるようになった。

これをきっかけにバスキアはアーティストとして生きていくことを決意し、SAMOではなく、バスキア名義でも発表を始める。同じ年には、初めての個展を開催、精力的な活動を行う。この頃からバスキアはJulian Schnabel(ジュリアン・シュナーベル)やSusan Rothenberg(スーザン・ロゼンバーグ)のようなアーティストとともに新世代と呼ばれるようになり、バスキアの作品も5万ドルの値札をつけるようになっていた。


Untitled (1982)

またこの年にAndy Warholとレストランで出会ったとされており、バスキアのいくつかの作品を彼に見せたと言われている。(その後もAndy Warholとの関係は続き、よく一緒に飲み歩いたという。加えて16もの絵画を共作として1985年に発表した。しかし批評家の評価は芳しくなかった)


Andy Warhol(左)とJean-Michel Basquiat(右)

20歳での独立以降、徐々にその知名度を高めていたバスキア。ドイツやアフリカでの展示会を成功させ、1985年前後には当時のニューヨークの有力画廊であったMary Booneが独占的に取り扱うほど。しかし、その関係は長くは続かなかった。

また彼の知名度が上がるにつれて、アート界における自身の居場所や、その毎日の生活に偏執や強い不安を抱くようになり、ドラッグの使用が目立つようになる。自身の作品が注目されなくなる不安や、誰かに盗まれてしまうかもしれないという恐怖感を、晩年のAndy Warholにも打ち明けている。


Philistines

1988年、バスキアは薬物の過剰摂取によって28歳という若さでこの世を去った。前年に師と仰いでいたAndy Warholがなくなってしまったのも影響しているのかもしれない。

アーティストの死後、その作品が大きく評価され価格が高騰することは多くが、バスキアは2017年に肖像画が1億1050万ドル(約123億円)で落札されたことで、1980年代以降のアメリカ人による作品の最高値を更新したと同時に、黒人アーティストとして、最高値を記録した。

生前、1200件以上のドローイングと、900点以上の絵画を発表したバスキア。多くのメッセージを放ち続ける彼の作品はの作品は今もなお私たちを魅了している。

決して我々の手には届かないバスキアの作品ではあるが、気に入った作品をポスターとして飾ってみるのもいいかもしれない。

バスキアの作品(プリント)をebayで見てみる

2011年にバスキアのドキュメンタリー映画がリリースされている。興味がある方はそちらもぜひ。

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